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総義歯学ビブリオグラフィ

       

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はじめに

 ウ蝕や歯周病などで歯がなくなってしまった患者さんに歯のかわりのものを入れて噛む力や審美性を回復することを専門に研究する歯科の一分野を歯科補綴学(しかほてつがく)といいます。補綴学はさらに冠をかぶせたり、ブリッジをいれる冠橋義歯学、部分入れ歯を応用する部分床義歯学、総入れ歯を応用する全部床義歯学(総義歯学)、人工歯根を応用するインプラント学に分かれます。
 私が学生の頃は歯がまったくない状態の患者さんには総入れ歯を入れるという選択肢しかありませんでした。その後のインプラント学のめざましい発達により歯がまったくない状態でもインプラントを応用できる場合もでてまいりましたが患者さんの顎や全身の状態によってはインプラントの応用が難しく義歯で対応しなければならないケースも依然として多く存在します。
 総義歯が現在のかたちになり、広く臨床に応用されるようになったのは第2次世界大戦より少し前まで遡らなければなりません。歯科材料学、解剖学、生理学などの発達をふまえ多くの先人の苦労を経て今の義歯の形態になったことはいうまでもありません。ここでは特に現在の総義歯に影響を与えた学術書について扱ってみたいと思います。どちらかといいますと歯科大生、若い歯科医の先生向けの内容になっております。

バウチャー,C.O.,他 : 無歯顎患者のための補綴治療(第7版)
         MOSBY CO.Saint Louis 1975  

  総義歯患者の治療の術式、制作方法を確立。常温重合レジンで個人トレーを作り、辺縁形成して最終印象するのはこの本から
     

 総義歯の教科書の中ではもっともポピュラーです。現在の日本の総義歯の作り方の源流はこの本にあるといっても過言ではないと思います。もちろんこれ以前あるいは同じ頃に出版された権威ある本もあります。しかし一冊と言われたらこの本ではないでしょうか。左の写真は第7版で1975年にアメリカで出版されました。この本が出たのと同じ頃著者のバウチャーはこの世を去っております。
 第1版は1940年の出版ですが当時の著者はバウチャーではなくその師匠のスウェンソンでした。以前は「スウェンソンの総義歯学」というタイトルでした。スウェンソンの死後彼が引き継いで版を重ねてきました。そして今度はまたその弟子のザーブに引き継がれ10版(1990年)まで続いております。50年間の間に歯科の材料も飛躍的に進歩しました。その進歩と共に臨床技法も進化していった道筋をたどることができます。ほとんどの日本の歯科大学の総義歯の教育は本書がもとになっていると聞いております。
 本書を購入したのは専門課程の2年生(学年でいうと4年生)でした。総義歯学講義の一番最初に当時教授だった林都志夫先生の「英語が簡単、プレイボーイくらいそのまま読めるヤツは買いなさい。」の言葉に乗せられたのがきっかけでした。その2年後に林先生の講座の末席を汚すようになるのもこれが縁だったのかもしれません。はじめは苦労しましたが専門用語に慣れると文体自体は平易ですので次第に辞書なしでかなりのスピードで読み進めるようになりました。慣れは大事ですね。

 さて本書において最も意義があると思われるのは次の2点です。
 1点は口や口のまわりの仕組みを解剖学(顕微鏡的所見による組織学的考察も含む)から調べつくして義歯の形態の意味づけを行なった点です。歯科医なら知っている「臼後隆起」という言葉もこの本で登場します。総義歯は上顎も下顎も流れるように変化する複雑な3次元的形態をなしますが、その全てに解剖学的な裏づけ、すなわち義歯を取り囲む筋肉の付着のしかた、走行、収縮時の働き、義歯を支える粘膜の状態などを個々の患者さんごとに考慮した後にこちらが形態を与えてあげること(デザインすること)が必要です。総義歯の印象(型を採ることです)はテイクではなくメイクだといわれるのはこの点にあります。
 2点目は総義歯を作る際の術式、工程の基礎を確立した点にあります。彼の術式は日本にも取り入れられました。詳しい説明は割愛しますがどこの歯科医院で義歯を作っても治療にかかる回数はほぼ同じです。彼はまた優れた臨床家でもありました。特に手技に関しては非常に詳しい記載がなされています。例えば下顎の印象を採得する際は口を閉めた状態で行なうこと、術者の指が患者さんの舌や頬の自然な動きを妨げないようにするにはどうするか、深さや厚さを決める基準はどこにおくかなどで臨床家としての彼の熱い想いは伝わってきます。彼の死後、この本の改訂はその弟子のザーブに受け継がれましたが彼はあまり臨床は得意ではなかったようで改訂版においてもバウチャーの古い写真を使いまわすことがほとんどでした。仮に新しい義歯の写真の追加があったとしてもザーブはバウチャーの教えを実践できなかったと言わざるを得ないほど情けない出来栄えでした。私としては7版がベストだと思います。

 今改めてこの本を読むと初心に帰ることの大事さを感じます。もちろん歯科の材料はこの頃よりもまた飛躍的な進歩を遂げました。最近の型を採る材料(印象材といいます)はにおいや刺激がなく、硬化もスピーディです。おかげで型を採る(印象)際の患者さんに与えるダメージも激減しました。義歯を構成する材料も精度が格段に向上しました。それでも難しい症例はやはり存在します。簡単な症例に見えるけれど何かを見落としてうまく行かないこともあります。そんな時この本に立ち返ると答が見えてくるような気がします。



本書より引用

べレジン,V.E.,他 : 総義歯におけるニュートラルゾーン
     MOSBY CO.Saint Louis 1973

 ニュートラルゾーンとデンチャースペースという概念を導入。咬座印象はここから始まった

 総義歯が難しいといわれるのは当たり前ですが義歯を口腔内につなぎ止めておく歯がないからです。ただ作っただけでは義歯は患者さんの口の中に納まっていることはできません。患者さんが何にもしなくても上顎の義歯は落っこち、下顎の歯は浮き上がってきます。まして物を食べたり、話をしたりするともっと悲惨なことになります。患者さんが食べたり、話したりすると口や義歯のまわりの筋肉が様々な動きをします。もし義歯が筋肉の動きを邪魔するような形をしていれば筋肉に動きに合わせて義歯も動いてしまい、食事をすることは不可能です。彼は義歯の安定に最も影響を及ぼすのは頬と舌の動きであると考えました。すなわち頬と舌が動きを受けにくい場所(ニュートラルゾーン)に義歯が納まるようにし、さらに頬や舌の力が義歯が安定させる力として利用できる義歯の形態を探し出すことが重要であるとしたのです。

 彼はニュートラルゾーンを実際に生かす術式も考案しました。バウチャーらの方法では予備印象、最終印象後に咬合床を作って咬合採得(上顎と下顎の位置関係を記録すること)を行いますがべレジンの方法では予備印象で作成した模型上で咬合床を作ります。ここで咬合を記録する部分に将来歯が並ぶわけですが、温めると軟らかくなり患者さんの頬や舌の動きを記録できるようになります。この材料を使って咬合採得を終えた後、この咬合床を用いて上下同時に(口の中で上下の咬合床を噛みしめた状態で最終印象を行います。すなわち咬座印象です。実際にこの方法をやってみましたが非常に難しいものでした。まず咬合を記録する材料を均等に温めることが大事ですがそうしますと患者さんのお口までこれを運ぶ際に持つ部位がありません。さらにその材料の加減も難しく量が多ければニュートラルゾーンを侵害し、少なければ頬や舌の動きを印記できません。また実際は患者さんの咬む力でかみ合わせが予定した高さよりどんどん低くなってしまいます。さらに咬座印象についてですが予備印象から作った咬合床は適合が悪く、咬座印象の時に患者さんが痛みを感じたり、顎の様子を変形させたまま記録してしまう危険性をはらんでいる場合もあります。

 そうはいってもニュートラルゾーンという概念がなければ快適な義歯を作ることは不可能です。患者さんの今までの義歯を見るとき、新しく作るとき、並んでいる歯(人工歯といいます)の位置や入れ歯の床の形が患者さんの頬や舌の動きを妨げていないか確認することは必須です。昔まだ私が大学で助手だった頃、私の教室の先輩で現在母校東京医科歯科大学で教授をされている鈴木哲也先生は常々「ニュートラルゾーンの心」を持てとおっしゃっていました。まさにそのとおりだと思います。


本書より引用


 ワット,D.M.,マグレガー,A.R : コンプリート・デンチャーの設計(第1版)
         W.B,SAUNDERS CO.Philadelphia,London,Toronto 1976 

 模型を読めば元あった歯の位置が見えてくる。ただのスジのようなものが臼歯の歯肉のなごりだった。
     

 総義歯を作る際に最も重要なのはどこに歯を並べて噛み合せを再建するかということです。歯の位置を決め、上顎と下顎の噛み合せの場所、噛み合せの高さをうまく設定できればほとんど8割成功したも同然です。しかしながらこれが最も難しいのです。もしも元々歯があった場所が推定できれば随分違ってくるはずです。それでは逆に歯がなくなると顔貌や歯がなくなった顎の土手(顎堤といいます)はどのように変化するかじっくり観察すれば歯のなくなった顎に元あった歯の位置を示すヒントが隠されているかもしれません。何か顎堤に歯があった場所を示す目印が残っていないだろうか。ワットとマグレガーの研究はここからスタートしました。前に挙げた2冊の著者はアメリカ国籍ですが今回のワット、マグレガーはイギリス、それもスコットランド、それぞれエジンバラ大学、グラスゴー大学のプロフェッサーです。

1.切歯乳頭と上顎犬歯の位置関係:彼等は長年にわたり、顎堤の変化(主として吸収ですが)の様子を定量的に観察しました。彼等は主に上顎の変化について研究し、歯のない場合、切歯乳頭の後縁から水平に直線を引くとちょうど元あった犬歯の尖頭の位置を通ることを発見しました。このことは今では誰でも義歯を作る場合の参考にしております。(図ー1)犬歯の位置は上の歯の並び方を予測する大きなヒントになります。犬歯の後ろには小臼歯と大臼歯がありますが犬歯がちょうど変曲点(曲がり角)になっているからです。

2.上顎臼歯舌側歯肉遺残:専門でない方には何のことかまったくわからない言葉ですね。日本での訳本には「遺残」となっております。英語ですとレムナント、痕跡というほうがわかりやすいと思います。図ー2の矢印で示された前後に走るヒモのように見えるものです。この外側(私たちは頬側といいます)に臼歯が並んでいたことになります。意外なほど外側に感じられると思います。(歯科医師国家試験の定番ですが)上顎の顎堤(土手のことです)は内側に向かって吸収するからです。

3.食渣が残りにくい形態について:下顎義歯の頬側によく食べ物が残ってこまると患者さんに言われることがあります。特に頬筋の筋力が衰えているお年寄りの場合は顕著です。この部分を凹面ではなく凸面にすることで食渣が口腔内に残りにくくすることができます。凸面にしても頬筋の収縮を妨げることがないので義歯が不安定になることはありません。このことは口腔ケア、摂食・嚥下リハの観点からも重要です。

 この本の訳本が日本で出版される前は人工歯、特に臼歯部の配列(古くは排列)基準にはギージーの歯槽頂間線法則が支配的でした。簡単に言いますと義歯が口腔内で安定するためには臼歯部人工歯を外側(頬側)に並べてはいけないというものでした。義歯の印象材(型を採る材料)の精度も悪く、義歯の材料もあまりいいものがなかった昔はなかなかしっかり吸着して安定する総義歯を作ることはほんとうに難しいことでした。その頃考え出された法則ですので実際に元歯があった場所に臼歯の人工歯を並べるという発想は困難でした。実際にこの法則に当てはまるのは第一大臼歯の配列です。そしてこの法則にしっかり従うように臼歯を並べると極端に内側に並んでしまい、舌を噛んだり、舌の動きを妨げるため今度は却って安定が悪くなってしまうことがあります。ただ私はこの法則を100%否定するのではありません。総義歯を作るときは患者さんのお顔の様子、筋肉の張り具合、今現在お使いの義歯の様子、またこのような配列基準など多くの情報を集めて最も患者にとって入れ具合がよく、よく噛める義歯の姿を割り出そうとします。その中の基準の一つとしてこの法則も必要と考えております。

 総義歯学は歯科補綴学でも古い分野です。次回はその中でも最も古くしかも今の総義歯の源流と言われているフィッシュの総義歯学を取り上げる予定です。なんと初版は1933年です。


図ー1(本書より引用)

図ー2(本書より引用)

 フィッシュ,W ; 総義歯補綴学の原理(第6版)
         STAPLES PRESS,London 1964 

 総義歯の形態を印象面、咬合面、研磨面の3つの成分に分けて考えるという概念を作った。
 特に研磨面の形態が義歯の安定にとって不可欠であるという考えは今も受け継がれている。

     

 初版は1933年です。著者フィッシュはロンドン王立歯科学校の教授でサーの称号を持っていました。第2次世界大戦をはさんで6版まで出版されておりますがおそらく日本にはほとんど残っていないと思われます。この6版も私が大学院に在籍した当時の助教授早川先生がロンドンの古本屋で偶然発見したもので表紙が欠落しておりました。当然のことですがバウチャー、べレジン、ワットらの本と違い邦訳はありません。しかしながらこの本がやはり近代総義歯学の源流と思われます。

 この本では先に述べたように総義歯を機能の面から印象面(impression surface)、咬合面(occlusal surface)、研磨面(polished surface)に分けています。印象面は義歯が機能、つまり食物を咀嚼した時に生じる力を顎堤に伝える働き、咬合面は食物を咀嚼する働きをします。そして研磨面は頬や舌が機能した時に生じる力を義歯が安定するような力に変換する働きをするのです。この本の勉強会に参加させていただく機会に恵まれ、総義歯に対する見方、考え方をしっかり持つことができました。当時の印象材は(印象用)石膏でした。個人トレーの使用の記載がすでにありますが材料が石膏ですので印象材の進歩した現代にくらべその取り扱いはかなりの熟練が必要だったと思われます。(患者さんもたいへんだったと思います。)それにも関わらず完成した義歯の形態は現在必要とされている要件を満たし、美しい曲面で構成されています。印象はTAKEではなくMAKE、すなわち術者の考えが義歯の形態に反映されるものでならないというのが私たちの考えです。この本ではすでにすでにインプレッション・メイキングという記載があります。

右の図からもわかるように研磨面をシャープに形成しているため人工臼歯の幅は天然歯よりも狭くなっています。GC社のリブデント、松風社のバイオエースなど一昔前の臼歯部人工歯の幅が狭いのはこの本の影響ではないかと思ってしまうほどです。実際にはどうでしょう?頬舌的な幅が狭い人工歯は頬や舌の動きが活発で力強い比較的若い患者さんでは問題がないかもしれません。しかし頬や舌の筋力が低下した高齢の患者さんの場合は死腔ができてかえって食べにくく入れ歯のまわりに食渣が残りやすくなります。超高齢化社会の現代では高齢患者さんのための人工歯、義歯のデザインが必要であると思います。

次は「シュライネマーカースのシステマティックコンプリートデンチャー」の予定です。

本書より引用

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